障害者殺傷事件にある不幸な存在と不要な存在。

相模原市津久井やまゆり園での障害者殺傷事件で植松聖元被告の死刑判決が確定しました。その一審判決の中で犯行の動機は「意思疎通ができない重度障害者は不幸であり、不要な存在。重度障害者を安楽死させる社会が実現すれば自分は先駆者になれると考えた」と述べています。

 

この重度障害者は「不幸」であり、「不要」な存在というのがどうも結びつかないでいます。不幸というのは主観的な面で不要というのは客観的な面があります。不幸というのは言うなればあんたに知ったことか、私が幸せだと思えば良い、になります。

 

そして、この植松死刑囚が”勝手に”不幸だと思っていることにより「安楽死」させれば幸せだと思っていることにエゴが強いです。自分の死に方について”勝手に”安楽死が幸せだと思っていることがこれも主観になります。安楽死という選択肢自体はあってもよいかもしれませんが、安楽死だけが幸せではない。

 

その主観にさらにエゴが入ったのが「不要な存在」という言葉です。ここに植松死刑囚の本音が出ています。これを言いたかったがための伏線でしかありません。