指導する側と指導される側の言い分

暴力を入れた指導が正しいか正しくないかで言えば正しくない。では必要悪かで言えばというのが今の取り沙汰される問題だと思う。指導者側からしたら取引なのかもしれないことをかんがみると、教えたくもない技術を教えてやっているのだからそれぐらい取引としてしても問題ないだろうという考えに落ち着く。そんなことは心に思っても言わないでしょうけど。

 

では教えられる側が暴力を取り入れないと覚えないということであれば指導側と指導される側どちらに非があるのかという問題に行き着く。指導される側がそこまでしないと上に這い上がれないのだから仕方がないだろうという指導側の主張とそうまでしないと指導される側をのばすことができないのかという指導される側からの主張が交錯するからです。一体どちらに軍配があがるのだろうか?

 

気になるのは指導する側が人によって指導方法を変えているのか?ということだと思う。この選手で言えば暴力を取り入れないで教えた方が伸びると判断した、またはこの選手でいえば暴力を取り入れないで指導したが伸びなくて暴力を取り入れて指導したらぐんと効果があったとか。そんな手法など考えず自分の思うように一貫して同じことを繰り返すだけでしょう?そうであればとてもではないけど暴力を取り入れる指導する側に能力があるとは思えません。

 

といっても暴力を取り入れない手法での指導の仕方をいろいろと考え、アプローチしていかないことにはどっちみちその指導者は能力がなかったことになるでしょうね。

振り子の現象が激しいこの世の中

一体パワハラを受けた人は何人いるのだろうか?2017年度に労災申請した人は1732人で労災認定された人は500人を超えたそうです。労災申請した人はおそらく勇気ある御仁たちだと思います。私ならよっぽどのことがない限り労災申請などしないと思います。

 

この勇気ある御仁にはぶれた方たちは今も苦痛に耐え忍んでいるはずです。それが一体何人にのぼるのか?また苦痛に耐えきれなかった人が過労で倒れたり、またはそれまでに至らずとも自殺したりと最悪の事態に発展していることを考えれば潜在的な苦しさを耐え忍んでいる人はかなりの割合にのぼるはずです。

 

こんなことでよく生産性なんて言葉がはけるなと憤慨してしまう。この人口減の社会になって富にそう思う。人口増の時は、また人口増がなくならない未来だったならこんなことを語る人たちは問題にとりあげられなかったかもしれません。

 

では別の視点で考えると、労災申請した人はもしや当然の権利の行使とでも思っている人が何人いるのだろうか?この権利の行使と思うひとたちが今の世の中にはかなり多くいるのではないかと思う。

 

また、人手不足による売り手市場で企業が雇用をするにおいてとてもすり寄っているように見える。まるでごますりしているかのように。この極端な動向は一体何なのだろう?振り子の減少で極端にふっているからこそ反対にふってしまうのだろうか。何だかおかしい気がする。

侃々諤々の漢字が日経新聞でひらがなに。違和感が。

今日の日経新聞の社説で「侃々諤々(かんかんがくがく)」がひらがなで打たれていることに少し驚きました。最近は漢字で打たなくなったのですか。漢字で打たなければ漢字を読むことは出来なくなります。

 

漢字で書いてふりがなのルビを打ってくれれば良いではないですか。ルビをふるのは面倒臭いということなのか、それとも簡易にすぐ読めるようにとの意図からなのか。

ただもしその字を知らない人にとっては意味を調べようがない。

 

もしかして常用漢字から外れているとかそういう理由なのか。またこういうのが出る度に気になりそうです。