読解力の順位の意味のなさ

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日本は読解力の順位が下がったということで毎回のこの手の調査結果から読書が足りないという結論に結び付けたがりますが、いつもちょっと短絡的過ぎないか?と思っています。

 

では今回の調査で見ると中国がかなり飛躍して1位に浮上しているのですが、よく見てみると北京市上海市江蘇省浙江省の4行政区のみです。どう見てもおかしいでしょう。それなら各国主要都市として調査するべきです。中国に便宜しているとしか見えない構図です。

 

次に15歳という年齢。この年齢だけを見てなぜか日本人全体が読解力が悪いという短絡的なイメージとなり、だから新聞や本を読むようにしようという商業活動の方にもってこさせようという心理的要素を感じてしまう。

 

また問題内容です。少なからず読んでいると自負している私でも解けるかどうか分からない問題に読解力の定義が不明です。これは読書をした結果からではなく、そういう問題の解き方を勉強したかどうか?なのではないでしょうか?その15歳で習う問題など私には解けません。

 

そして、これからの時代は読む時代から打つ時代、触れる時代、音声の時代へと様変わりしてきた中で世界も同じ方向に向かっている中でどれだけこの指標が役に立つのかということが問われるのではないでしょうか?

 

 

「サービスが先、利益が後」という理想の幻想

「サービスが先、利益が後」。故小倉昌男さんの経営哲学だそうですが、この理想はどの業界にあっても通じるものでしょうけど、それを遂行するのは難しいということでしょう。ヤマトはこの小倉さんがいた時はそれが出来ていたとしても、それ以降はできていないから今のようなことが起きているということでしょう。

 

つまり、後継者が育っていなかった。この後継者問題というのは今まさにいろいろな業種で問題となっています。後継者不足により赤字でなくても倒産となる会社が続々と出てくる可能性があるということが言われています。倒産にしなくても後継者となった人が無能だった場合には会社は思った通りの如く危機に陥ってくる。

 

アップルであればスティージョブズの後に能力的に揶揄されたティムクックはその後、業績を上げたため胸をなでおろしたアップルなのでしょうけど、革新性がないのではないかと言われています。今後の未来の後継者に望まれるものへの期待性がさらに多いからで、というのは時代の変革期が来ているからでしょう。

 

戻ってヤマトの話しですが、パワハラなどの映像が出て問題が浮上しています。従業員ファーストなんてもってのほか、利益だけ重視。サービスすらやっているのか疑わしくなります。利益追求だけしてどこに還元するのか。経営陣にだけでしょうか。それとも株主還元だけでしょうか。それとも株主にも還元しないのか。

 

ここで普通のやり方では戻ってこない気がしますが、どのようにするのかを見てみたいですね。

ギグワーカーという仕事にハテナをつけたくなるが。

最近増えてきたギグワーカー。これが副業だったり、兼業だったり、または個人事業主というカテゴリーで働き方改革の一つの要となる立ち位置として君臨しつつありますが、私にはどうも否定的なイメージしか持てません。

 

特にウーバーなどは世界でかなり問題視されています。性的暴行が3000件と言われたり、死亡事故が多数起こっている。株価も下がっている。世界では労働者であるかそうでないかという問題に訴訟まで起こっている。だから、日本では労働組合まで立ち上げたそうなんですが。

 

日本でこのギグワーカーが増えてきたのは今の職場が嫌で、それなら自分でやろうと思う人が出てきたということでしょう。しかし、労働者であるかの問題がそこにかなりくってかかる。社会保障を受けられるかどうか。事故も多く、その間の収入はどうするか。だれも保障してくれない。自己責任だから仕方ないとあきらめるか。

 

そういうことなのだでしょうか?何か歯切れが悪く。違うことのような気がします。未来の働き方としてそういうことが挟まれたのは考えるよしなにはなりますけど。

インプットは量よりも質ということ。

今気づいたというか思い至ったのですが、今までインプットとアウトプットの比率のことは量で考えていたのですが、インプットは3でアウトプットは7という黄金比率の意味が分かったというか気づいたということです。

 

インプットは量ではなく質だったのだと。インプットの部分ができていればアウトプットはあとは大量生産するだけです。インプットを今まで割合的に少ないからインプットは量を少なくしなければならないという頭だけあり、ただそれだけでアウトプットにつながるのかという疑問がついていわけです。

 

しかし、インプットを量ではなく質で考えたら納得がいきます。何を見て、何を読んで、何を感じて、何を考えるか。ここには質がとても問われるわけです。自分自身の質を向上することでインプットは少なくてよいことになります。

 

逆に言えば、インプットしないでも良いものを見分ける力もつく、つける。インプットするものとしないものを見分けること、と共にインプットするものに対してはどのように膾炙するか、できるかが必要ということでしょう。

今そんなことを考えていました。