OREO's diary

「ある」というより「ない」という価値を考えないと人生は幸せになれない?

今日の日経新聞に故人と会話出来るデジタル空間に再現された「デジタルツイン」というのが書かれていました。昔でいうイタコみたいなものに思えますが、全く違うもので、生前の故人のデータを集め、話しぶりをAIで再現するのだそう。これが技術が進めば人格が意思を示すことが可能性としてあるという。何て空恐ろしい。

 

これをブラホスさんという方が創業したヒアアフターという会社がやっていて500人以上が予約を取ったそう。AIの時代はこういうことが起きる。ここで思ったのは価値とは何であろうか?ということです。今の時代は「ある」ことに価値を置きすぎではないでしょうか?私には「ない」ということに価値があると思っています。

 

「ない」または「なくなる」、そこに感性がしびれるように反応するのです。物、人、時間。これらに「ある」ということだけに着目するだなんてナンセンスで、「ない」から「ある」が際立つのです。今はデジタルで何でも出来る空間があります。そこにデジタル依存に陥るととんでもないことになるのではないかと危惧します。

 

その記事にはDNAデータで結婚相手を診断し、相性が悪ければ即離婚、または出会いすら操作するということも書いてあります。ただ間違いのない人生は偶然の出会いや発見もなく、計算された人生は本当に幸せか?と警鐘をならしています。私は幸せには思いません。ここにも決められた人生という「ある」があります。私には決められてない人生「ない」でもって人生を生きたいと思います。

ノンアルコールの活用方法として

日本だけでなく世界でもノンアルコールが流行っているとのこと。これを賛美すべきことなのかどうか。ノンアルコールが流行ってアルコールを取らないようになった時のメリットとしてアルコール飲酒による犯罪は防げるでしょうし、未成年に対する違反も防げるでしょう。ノンアルコールを製造・販売する業者もそれに糧を得られるでしょうし。

 

しかし、アルコールという文化の低減、アルコール飲酒による解放感だとかコミュニケーションだとか、活力というのでしょうか、そういうのがそがれる。もっと言えば、アルコールがあるから力強さを感じていたのがそういうのがなくなってしまうのではないかと危惧してしまう。

 

若者の「〇〇離れ」が横行する中で、アルコール離れもその一つとして、草食系男子のそしりをまぬかれません。

 

一番良いのはノンアルコールはノンアルコールという文化として根付いて、そのノンアルコールがアルコールへの興味、または一段階としてのものとなれば良いのではないかと思います。女性が飲めなかったりした場合の一段階であるとか、未成年が興味を示す、あるいはアルコールを飲めない変わりにノンアルコールで参加する。そういう方向へ舵を切るのが良いスタンスだと思います。

高齢者の足と健康に白タク規制の緩和は必要だとは思いますが。

今日(2019年11月29日付)の日経新聞の社説「高齢者の「足」には多様な選択肢が必要だ」に書いてあったことに少し驚きを覚えました。書いてあった内容は簡単に言えば、高齢者が事故を減らすために免許の自主返納の増加が増えているが、高齢者の足がなくなる。これは健康への懸念が増える。それを解消するために白タク規制をやめるべきではないか?という主張です。ここに踏み込んで主張してきたかと。

 

一理ある。時代の流れ、世界の流れを読み解けば、この岩盤規制はタクシー業界を守るだけの規制でしかなく、タクシーが業界が生き残らなければならないのか、高齢者がひいては私たち人々が生き残らなければならないのかという問いに本末転倒の疑問を投げかけてしまうわけです。

 

ではタクシーは誰の何のために存続しているのか?という存在理由を考えなければならなくなります。ただし、読んでいて高齢者の健康と足という問題に少し飛躍を覚えたのも確かです。乗り物に乗ることがそれを解消することなのか?と。それなら自分で動くということの方がより健康でより足にも良いのではないか?それは論理のすり替えではないかと。

 

この世の中は時代の流れが早いため、この時代の流れについていかないといけないような感覚に陥ってしまいますが、便利ということがどれだけ私たちの行動に歯止めをかけているかをふと立ち止まって考えないといけないのではないでしょうか。アナログも必要だと思いますよ。

タンス預金、休眠口座、矛盾との関係による日本の向かうべき方向は?

ご当地ペイが広がってきたそうです。ご当地ペイとは地方特有で作られたキャッシュレス化のことだそうで、貯められているタンス預金の活性化につながる目的もあるそうです。

 

また地方金融機関では休眠口座に手数料を取るということをしているようです。動いていないお金に動きをということですが、政府も年金の2000万円問題が浮上して貯蓄から投資へと方針を展開しました。

 

老後の不安の解消と経済活性化という点でそうするべきだと思いますが、何か腑に落ちないでいます。お金を使わないように不安にさせたのは一体どこのどいつだということが皆の心理状況です。使わないように不安にさせたのだから貯めておくしかないのにもっと使うべきだとは矛盾している。

 

つまり、政府は信頼度の下降局面にあるため、小さな政府に向かっていると見るべきでしょう。それなのに、消費税は上げる。これは大きな政府に向かおうとしている。これも矛盾していないでしょうか。

 

この向かう方向性があいまいなのであれば国民はついていかない。はっきりとさせるべきではないでしょうか。

ゲーム障害とスポーツによる矛盾を正当化した日本

WHO(世界保健機関)が2019年にゲーム障害を精神疾患にしました。そこからゲームというものが疾患に変わるものだという認識が世界でされるようになりましたが、そのゲーム障害に関する初の実態調査を厚生労働省がして発表しました。7%が授業中や仕事中もゲームを続けているとして一部に依存症状がみられたという結果です。

 

ここでとらえないといけないのは、ゲームすることは悪いことではないのになぜ悪く言われるのか?ということでしょう。これだとゲーム自体が悪いという印象に取られてしまう。そうではなくて、ゲームを依存するまでにすることが悪いということに着目すべきです。

 

ある人はゲームだけが人間関係の不信に陥った時のつなぎ止めになるという。このコミュニケーションができない人たちの中で唯一人生を生きるためのつなぎ止めになっているのであれば自殺をとどめる抑止力になっているのかもしれません。しかし、それがために依存症にまでなってしまったのであれば行き過ぎなのですが。

 

しかし、今はゲームによるeスポーツが活気になっています。ゲームがスポーツ化してくる中でゲームをもっとしていこうという動きがあるわけです。この矛盾は一体何なのでしょうか。ギャンブル依存をとめないといけないのにカジノを日本に作るのと同じような気がします。

 

少しうがった目で見てみれば商業者が「正当化」を目論んでやる、または国が「正当化」を目論んでやる経済効果を当てにしている。エコノミックアニマルと揶揄される所以でもあるのかと疑ってしまいそうになります。そういう混雑さが日本なのでしょう。