コミュニケーション能力の必然性

コミュニケーション能力は社会人になって必然的に必要となる能力ですが、私は年を取るにつれ富にこの重要性が増しているなと感じます。私が働いている喫茶店でのお客さんとの会話、スタッフとの会話、そして夫婦やその他との会話でもそうですが、これほど重要なことはないでしょう。

 

私が思うにはできないという人は話し下手という言葉で片づけようとしますが、単なる話すネタを作っていない、探しにいっていない、アンテナをはっていないということではないかと思います。いろいろなことに興味を持たないと話すネタなど作ることができませんから。

 

難しいのは方やこちらが各種のネタを、または引き出しをたくさん作っていたとしても相手側がその引き出しが少ない場合にこちら側がそちらに合わせないといけないという問題が出てきます。

 

こちらがABCDという引き出しを持っていたとして相手がBという引き出しを持っていたとします。そして、こちら側はまず相手がBという引き出しを持っているかどうかも分かりません。それを探るわけですが、やっとこさBという引き出しを持っていることを分かってそれに合わせて話すわけですが、Bという話題しかずっとできないことになります。

 

そして、もしかしたら、Eという引き出しを持っているかもしれませんのでそちらを探る。こちらがそのEという引き出しを持っていれば良いですが、持っていなければこちらもそのEを持つために努力するかそれとも他の可能性を考えるか。

 

次にそのBであっても深さが異なります。どこまで掘り下げられるのか。そして、それらの下の土台をZとしてその土台のレベルがどれだけなのか。土台とは基礎レベルといいましょうか、言葉のレベルとでもいいましょうか。

 

この前、テレビで林修先生が他人と話す時に難しい言葉が浮かびますが、相手に合わせて簡単な言葉で言い換えていると。私はまだそれができないのかそのまま言ってしまい、相手が分からないようなのでその時に言い換えるということをしています。ああ、この言葉を知らなかったのだと。

 

会話はしていますか?それとも避けていますか?