パワハラ問題は北風と太陽の対策で。

企業にパワハラを防止措置を義務付ける法改正のための指針案がまとまったそうで、これから法改正に向けて動くのでしょう。まあこれはこれで動くとして私が思うのは「北風と太陽」の寓話のごとくこの方法は北風方法です。これとは別に太陽の方法も模索すべきでしょう。

 

太陽の方法とは従業員が企業を選ぶということに他なりません。働き方改革ということを考えるのであれば従業員が働きやすい環境を作っている企業、でないところは従業員が選ばない企業ということになってきます。

 

しかし、この太陽というのが子供への甘さのようなものであるのならばそれは本来的な太陽ではありません。そこに私たちが気づかないで口に出すのであれば企業は大人を雇いたいのであって子供を雇うものではなく辞めてもらうということになるでしょう。

 

織田信成さんの問題に関しては「モラハラ」ということになりますが、立ち位置がそうなっているからそうなだけで、「パワハラ」という問題の話しでしょう。もちろん、「パワハラ」に当たるのかどうかは該当者ではないので分かりません。そもそもこの問題はキャリアのことも考えての配置を間違ったからとしか思えません。人選配置ミスです。それをした人が一番問題を問われるべきではないでしょうか。

核保有する前とした後とで考えは異なるという理論

フランシスコ・ローマ教皇が来日して、アドリブだったらしいですけど、核保有が抑止力になっていないということを言ったそうです。ここは難しい問題であると思います。私の考えでは核保有する前と後とでその捉え方が変わるのではないかというものなので少し違うのではないかと思ったりします。

 

どういうことかと言いますと、核保有する前では核を保有していないという前提の頭で考えるのでそこが核を持たない方が良いというそれを共通項として群衆心理要素として持てると思うのですが、一旦、核を保有してしまった場合はなくすことはできない。保有することによって抑止力が働くという考えでしかとらえることができないということです。

 

これは銃規制の問題でも同じ効用を発すると思います。アメリカは銃社会ですが、これだけ銃による被害が出る中で銃規制が進まないのもそこが問題になっているのでしょう。日本は銃を保有することができないことが歯止めとなっているので日本側からのスタンスでアメリカを論じることはできないというわけです。

 

ちょっと話しは変わるのですが、今の時代は裕福となりました。さまざまな人がいろいろな者を所有することができる贅沢な時代となり、手に入れられるものがないということになった今、あるかなしかで昔の人と今の人の考えが根底から変わっていると感じます。それも同じことなのではないかと思います。

心理学のプロで構成された対策チームを!

韓国はGSOMIAを維持しました。この韓国とのいつまでも続く不毛な争いを解決するために私は心理的対応ができないのだろうか?と思います。操作というのではなく何とかウィンウィンの関係に持ってこさせて良い関係を保つ。それがアメリカとも含め韓国、日本での同盟関係を良好に保ち、北朝鮮、引いては中国やロシアにまで対することができるのではないだろうか。

 

そのために心理学のプロで構成された対策チームを外交面に取り入れらたらどうでしょうか。それか講師としてそういうことを学ぶ。心理学というのが各国、文化や思想が違えど根底の部分においてはそれだけ差異がなく効果を上げるはずです。

 

それが何十年にも渡ってどんどんと深みにはまるのを見ているだけでは歯がゆくて仕方がありません。昔に決めたこともいつまでも蒸し返してくる。だから許せん、ではなくてそういう国だという認識をしてそれにどう対処するか。これは韓国だけに限りません。他の国に対してもそうです。それぞれに国はそういう国だということを認識しつつそれぞれの国に対処することを、対処する方法を模索する。そういうことが必要なのだと思います。

 

日本はこういう国だからこういう返ししかできない、なんていつまでたっても言ってられませんし、いつまでたっても言っているから変わらないのです。相手国を変えることを考えずに自国を柔軟に変えていく。日本は柔軟に変えていける国だと思うし、今までも変えてきたと思います。それが誇れる所以でしょう。

こんな管理者にはなりたくない前校長の言葉

連日いじめを受けた学校の先生のことがテレビで取り上げられておりますが、いじめている先生方ももちろん憤りを感じたのですが、それよりも校長や前校長の方に憤りを感じました。

 

気づけなかったとかそういうことを言っているようですが、学校の長である校長がそれを統べる全責任を持つのにも関わらず「気づけなかった」なんて言い訳で責任逃れするなんて言語道断でしょう。

 

ご本人は気づけなかったから対処できなかったと言いたいのでしょうが、この「気づけなかった」ということが一番の問題であり監督レベルが低いことを表しています。何か起こっていないか?を察知する能力に欠けているのですよと自分で言っているのです。

 

それから、この言葉の裏には気づけたら対処できたのにという含みも併せ持っています。それも責任転嫁です。この両方の部分に悔やんでほしいところに部外者のような感じで前校長の言葉は感じました。こんな管理者にはなりたくないですね。